朝日新聞 やんばるの森をたどって

やんばるの森をたどって

 

Part 1 - 藍ちゃん、パイン、灰色の鳥

 沖縄本島の北部一帯は「やんばる」と呼ばれ、漢字では「山原」と書く。国頭村(くにがみそん)、大宜味村(おおぎみそん)、東村(ひがしそん)などにまたがり、もこもこと緑が連なるところから「ブロッコリーの森」という愛称もある。

 東村は那覇市から車で約2時間、人口は1700ほどで本島では最も少ない。コンビニはなく、信号のある交差点は二つだけ。かつて「陸の孤島」と呼ばれていた。...

 森には絶滅危惧種ヤンバルクイナノグチゲラが生息する一方、米軍の北部訓練場から「灰色の鳥」も飛んでくる。垂直に離着陸できる米軍輸送機「オスプレイ」とは、空から急降下して魚を捕る猛禽類(もうきんるい)ミサゴの英語名だ。

 この春、村に新しい施設ができた。「東村文化・スポーツ記念館」。プロゴルファーの宮里3兄妹ほか、重量挙げの元五輪選手と琉球古典音楽人間国宝を顕彰する。いずれも東村の出身だ。聖志(きよし)、優作、藍の3人を育てた父、宮里優(まさる)さん(70)は言う。

 「沖縄の端にある小さな村からでも世界へ行ける。それを若者たちに知ってほしい、という村長の肝いりで。3人ともまだ現役なのでプレッシャーになったらと、ちょっとちゅうちょはしましたけど」

 展示室には3兄妹が幼いころに使ったミニパターが置かれ、藍ちゃん記念館とも呼ばれる建物は、総工費約5億8千万円。うち8割は沖縄振興の国庫補助金が充てられた。

 東村では長く、山から切り出した木材が唯一の収入源だった。だが、電気やガスが通ると需要は落ち込み、村は困窮した。

 救ったのは、優さんの伯父の故・宮里松次さんだった。戦時中、陸軍将校として台湾に赴任し、引き揚げ後は妻の郷里で文具店を営んでいた。台湾で知ったパイナップルの甘みが忘れられなかった。1955年ごろ故郷に戻り、パインづくりを始めた。

 松次さんは村長になると、村有地を格安で村民に払い下げ、米軍からトラクターをもらい受けた。南向きの斜面と酸性のやせた赤土がパイン栽培に適していた。東村はその後、生産量日本一になった。

 72年、その土地をめぐって騒動が起きる。

 〈石原裕次郎さん 東村に高級分譲別荘地〉

 琉球新報が報じた、15万坪に及ぶ裕次郎のリゾート計画は曲折の末、立ち消えになる。沖縄の日本復帰による開発ブームの余波だった。

 本島の北に位置する東村はずっと、戦(いくさ)と時代に翻弄(ほんろう)されてきた。

 沖縄戦では、10代の少年たちが、陸軍中野学校出身の軍人率いるゲリラ部隊に組み込まれ、最前線で銃を取った。

 57年、米軍の北部訓練場ができる。ベトナム戦争中、米兵が密林で訓練するための「ベトナム村」が造られた。住民は山中のゲリラ訓練にアルバイトで駆り出された。輸送の経由地だったため枯れ葉剤が持ち込まれた、と証言する元米兵もいる。

 昨年暮れには、北部訓練場の過半が返還された。一方、6カ所のヘリパッドが新たに森を切り開いてできた。

 豊かな森の小さな村。その歴史をたどる。(諸永裕司)

 

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第3遊撃隊と第4遊撃隊の編成を命じる大本営の命令。のちに「第1護郷隊」「第2護郷隊」と呼ばれた。「軍事機密」とある=防衛省防衛研究所所蔵

 

Part 2 - 陸軍中野学校と少年兵

 見舞いに訪れた病室で、玉那覇(たまなは)孝夫さん(59)=沖縄県東村=はふと、思いついた。

 「オヤジ、あの歌、聞かせてくれるかあ」

 

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 父、有義(ゆうぎ)さんが若いころ、酔うと口ずさんでいた曲を告げた。末期がんで入院中の父は、ベッドで歌いはじめた。...

 ♪運命(さだめ)かけたる沖縄島に/我等(われら)召されて護郷(ごきょう)の戦士

 沖縄戦のときに所属していた「護郷隊」の歌だ。耳慣れた旋律はまもなくプツリと途切れた。

 「あとは忘れた」

 父はそう言うと、目を閉じた。昨夏、87歳で息を引き取る2カ月前のことだった。

 護郷隊とは、沖縄で組織された少年ゲリラ部隊のことだ。名護市教委市史編纂(へんさん)係の川満彰さん(57)は、歴史に埋もれかけていた部隊の調査・研究を続けている。

 「護郷隊の歌は、3番と4番が、ある歌と同じなんです。『三三壮途(さんさんわかれ)の歌』。あの陸軍中野学校の校歌です」

 ♪赤き心で断じてなせば/骨も砕けよ 肉又(また)散れよ/君に捧げて微笑(ほほえ)む男児(3番)

 繰り返し歌わせることで、「故郷を護(まも)る」と同時に「君(天皇)に捧げる」精神を刻み込んだのだろう、という。

 川満さんによれば、戦争末期の1944年秋、大本営は9月9日付の「大陸命千百二十六号」で、沖縄を守る第32軍の牛島満司令官に対し、遊撃隊を組織するよう命じた。サイパンやグアムなどで敗北が続いていたころだ。

 「大本営は沖縄での玉砕も見越して、本土決戦までの時間稼ぎをするためにゲリラ戦を準備させた。このとき、部隊を率いるように命じられたのが陸軍中野学校出身の軍人たちだったのです」

 中野学校は諜報(ちょうほう)やゲリラ戦を教える専門機関だ。川満さんは関連資料に当たり、中野学校の生き残りにも確かめた。そして、42人が沖縄の本島と離島に送り込まれていたことを突き止めた。

 「彼らは第32軍が壊滅した後も米軍の後方で攪乱(かくらん)し、大本営に情報を伝える役割を担わされていました」

 本島では、主戦場となる南部ではなく、北部で地元の少年を集めた。大本営命令の翌月、名護町(現・名護市)を中心とする第1護郷隊と、東村など北部出身者からなる第2護郷隊が編成される。その後も何度かに分け、計千人ほどが集められたという。

 「兵力が足りないため、そのころ、兵役法の召集年齢が『満17歳以上』に引き下げられ、のちに15歳や16歳の少年も『志願』などの形で駆り出された。なかには14歳もいました」

 米軍の攻勢を受け、ゲリラ戦を任務としていたはずの護郷隊は、正面からの戦闘に巻き込まれた。川満さんによると、162人が命を落とした。出身地別で最も多かったのは、第2護郷隊を編成する東村と大宜味村。それぞれ24人が亡くなった。

 「戦況の悪化を受けて第9師団が台湾へ派遣され、その穴を埋めるために第2護郷隊は恩納岳に回された。地元から離れた土地勘のない場所での戦いを余儀なくされて、犠牲者が増えたのです」(諸永裕司)

 

 

Part 3 - 15歳、負傷兵を引きずって

http://digital.asahi.com/articles/photo/AS20170524002465.html

南国の太陽を受けて、パイナップル畑の赤土が青い空に映える。沖縄県東村の玉那覇(たまなは)盛一さん(89)は毎日、畑に足を運ぶ。かつて、護郷隊の少年ゲリラ兵だった。72年前とはいえ鮮明に覚えている。

 「あんなこと、忘れようがないですよ」

 護郷隊は、沖縄で編成された少年ゲリラ部隊だ。召集通知が村から届いたのは1944年秋。飛行場造りに駆り出された伊江島で米軍の大空襲にあい、命拾いした直後のことだった。

 検査を受けた後、約30キロ離れた名護の学校まで歩いて行った。名前が書かれた軍服や軍靴、銃が用意されていた。夕食には、めったに口にできない白米や豚肉が並んだ。玉那覇さんは、軍隊もいいなあと無邪気に思った。

 2日目、夜中に便所へ行った。足先だけ軍靴に突っ込んでいたのを巡回中の上官に見とがめられ、殴られた。朝には顔の半分が腫れていた。

 昼間は爆薬の作り方や銃の使い方を学び、夜は爆薬を持っての体当たりや夜襲の訓練を重ねた。軽機関銃を肩に、40キロの荷物を背負って行軍もした。「一人十殺」と教え込まれ、「軍人勅諭」が暗唱できないと鉄拳がとんだ。小さな帝国軍人をつくる教育は約2カ月に及んだ。

 「毎日、いつ殴られるかと震えて過ごしましたよ」

 45年4月1日、米軍が沖縄本島の読谷山村(現・読谷村)に上陸する。玉那覇さんが所属する第2護郷隊は恩納岳に司令部を構えた。

 玉那覇さんは軽機関銃班の小銃手として、隊の右側を警戒するのが任務だった。山中で迫撃砲を浴び、「左警戒」だった戦友が死んだ。別の日には、隣にいた幼なじみがこめかみを撃ち抜かれ、無言のまま息絶えた。

 「戦友とはいえ、ほったらかしですよ。もう、どうしようもない。相手をやらなければ。これ一筋ですね。やらなければ、やられますから」

 気がつけば、東村で山仕事を手伝っていた日々は一転、戦場に放り込まれていた。着の身着のまま壕(ごう)の中で目をつぶっても、緊張で眠れない。乾パンなどで空腹をごまかし、雨にぬれた軍服は、朝日が昇ってから乾かした。シラミにも苦しんだ。

 当時15歳だった大城弘吉(おおしろひろきち)さん(87)は、部隊の後方で負傷兵を運ぶ役目だった。

 「担架はないから、木の棒を兵隊の革帯に差し込んで引きずって。いつも、ひもじくしているから、死んだ兵隊から奉公袋を取って、残っている豆なんかも食べた」

 陸軍中野学校出身の岩波寿隊長は後にこう記している。

 〈連日連夜の激しい雨の中でねむった(略)ヘゴ、カタツムリ、カエル、ハブ(略)で飢えをしのいだ〉

 ヘゴは山に自生するシダ類の植物だ。

 米軍の攻撃は日を追うごとに激しさを増した。昼は迫撃砲、夜は艦砲射撃。ときに、竹やぶからの機銃掃射。戦力の差は歴然だった。

 防衛省防衛研究所の戦史叢(そう)書などによると、45年6月2日、岩波隊長は恩納岳からの撤退を決断する。密林の敗走が始まった。(諸永裕司)

 

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