特措法で基地使用 58ヘクタール - 地主望まぬ提供続く - 反戦地主とは

銃剣とブルトーザーで強制接収された土地。

沖縄では、復帰から45年たった今でも所有者の意に反する形で土地を米軍基地として利用される実態が続いている。

 

沖縄タイムス

2017年6月5日

特措法で米軍基地使用、沖縄では58ヘクタール 所有者の大半は「一坪反戦地主」

 沖縄県内の米軍基地で所有者が契約に応じないため、日本政府が駐留軍用地特措法を適用して使用権原を得たり、暫定使用したりする土地が2017年1月1日現在、58・8ヘクタールに上ることが分かった。国有地を除いた在沖米軍基地面積の約0・4%にあたる。復帰から45年たっても、所有者の意に反する形で土地を米軍基地として利用される実態が続いている。(政経部・福元大輔)

 内訳は、同特措法に基づく使用権原で借りている土地が15施設、28・9ヘクタール、手続き対象の土地が9施設、28・3ヘクタール、暫定使用している土地が3施設、1・6ヘクタール。防衛省の資料によると、特措法を適用している土地の所有者は3977人。うち米軍基地に反対するため、一坪ずつ軍用地を所有するいわゆる「一坪反戦地主」は3758人で、94・5%に及ぶという。

 日米安保条約で、米軍施設、区域の用地を提供する義務は日本政府にあり、本来なら土地所有者と合意し、賃貸契約を結ぶ必要がある。一方、合意が得られない場合、政府は特措法に基づく手続きを進め、使用権原を取得する。

 

県外では基地はほとんどが国有地である。

 県外では、法施行後の1952年から61年までの9年間で、49件に適用したが、国有地がほとんどで、民有地が少ないほか、残りの土地所有者との合意を取り付けることで、それ以降の特措法適用の実績はない。

 

沖縄の軍用地の歴史。

 沖縄では、72年の本土復帰からの10年間、政府は公用地暫定使用法で使用権原を取得。82年5月15日以降、駐留軍用地特措法が適用されるようになり、延べ100件以上に上る。現在では沖縄のみに適用されている。

 95年に、当時の大田昌秀知事が土地の強制使用手続きの一つ代理署名を拒否。一部の軍用地で契約が切れ、政府が「不法占拠」する状態が生じた。

 そのため、政府は97年に法を改正地主が契約を拒否した場合でも収用委員会の審理中なら補償を支払うことで「暫定使用」でき、収用委員会が却下裁決しても、条件が整えば防衛相権限で使用を可能とするなど、「永久使用」できる形になっている。

 

さて、沖縄の土地と尊厳をとりもどす運動は、戦後、様々な形をとって展開されてきた。その中の一つが、一坪反戦地主の運動です。

 

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反戦地主の群像

『沖縄を深く知る事典』(2003年2月25日 日外アソシエーツ株式会社発行)掲載

反戦地主とは

 沖縄本島の約20%を軍事基地が占めている。本土では基地のほとんどが国有地であるのに対し、沖縄の場合、3分の1が国有地、3分の1が市町村有地、残りの3分の1が私有地だ。軍用地主は約3万人。その中で、基地への土地提供を拒み契約を拒否する軍用地主がいる。いわゆる反戦地主と呼ばれる人々だ。

土地収用の始まりは旧日本軍

 1943年、日本軍は南方への中継地とするため沖縄に15の飛行場建設計画を立て、土地の収用を開始した。地代は強制的に郵便貯金をさせたり、国債を購入させたりした。なかには土地代が支払われたかどうかあいまいなまま、戦後は米軍基地となり国有地として扱われている土地もある。

 1945年4月1日、米軍は沖縄本島上陸と同時に本土攻略のための基地建設を開始した。丘を削り、田や畑を潰し、境界線もわからなくなるほど敷き均していった。戦禍の中かろうじて命拾いをした住民は、米軍によって次々と難民収容所へ保護された。住民は米軍の監視の下に置かれ、自由に出歩くことも許されず、収容所から収容所へと転々と移動させられた。

 1945年10月30日、収容所の解放が開始されたが、故郷は米軍の金網に囲まれ、帰る場所を失った住民がいた。

 生活が落ち着きかけたころ、新たな土地接収が開始された。東西の冷戦構造が明確になり、1949年中国で革命が起き、1950年には朝鮮戦争が勃発した。共産主義を制圧するため、米軍は沖縄の基地を拡大強化していった。

 1952年4月28日サンフランシスコ講和条約発効、沖縄は分離され米軍の統治に置かれることになる。

 米軍は住民に返した土地の再接収を開始した。1953年4月那覇市の銘苅地区、同年9月読谷村渡具知地区、同年12月那覇市具志地区、1955年3・7月宜野湾市伊佐浜地区、同年3月伊江島真謝・西崎地区、と接収の中止を懇願する住民に銃を突きつけ、威嚇し、立ち退かせ、作物や家をブルドーザーでなぎ倒し土地接収を強行していった。

法による強制土地使用

 1969年、佐藤ニクソン会談に於いて沖縄の復帰が決まった。「核抜き本土並返還」という住民の願いからはほど遠く、「安保条約」を根拠に基地はほとんど残り、核の存在もあいまいにされた。

 「安保条約」の関係上、日本政府は米軍に土地を提供しなければならなかった。契約に応じる地主とは民法に則って20年の賃貸借契約が交わされた。2万7000人の地主のうち約3000人が契約を拒否した。

 日本政府は反戦地主の土地を強制使用するため「公用地法」を適用した。政府は復帰前から基地として使用している土地を公用地とみなし、復帰後も5年間継続使用できるようにした。

 5年間の法的根拠が切れる1977年、戦争で不明確になった土地の境界線を明確にしてほしい、との反戦地主の要求を政府は逆手にとり、「地籍明確法」を制定、その付則で「公用地法」をさらに5年間延長し、使用を継続した。この時、法の制定が期限切れに間に合わず、法的根拠がないまま「空白の4日間」が発生した。

 それから5年後の1982年、日本政府は1951年に制定され休眠状態にある「米軍用地特措法」を反戦地主に適用し、さらに5年間の強制使用を継続した。この時点で自衛隊基地にある反戦地主の土地は返還された。返還された土地は金網に囲まれ、現実的には自由使用できない状態にある。

 その後も日本政府は、反戦地主の土地の強制使用を続けている。

変貌する軍用地料

 敗戦から講和条約発効まで軍用地料は支払われなかった。講和条約発効後、米軍は契約地主には契約金を払い、契約拒否地主には損失補償金を払っていった。しかし、年間の地代は「コーラ1本分」と表現されるほど安かった。米軍の人権を無視したしうちに民衆運動が高まり、1956年の"島ぐるみ闘争"へと発展していった。米軍は基地の安定使用を図って1958年に地代を倍近くに上げていったため、殆どの軍用地主が契約に応じた。しかし、一方で契約拒否を貫く軍用地主がいた。

 復帰が決まると、日本政府は円滑に契約をすすめるため、地代を4倍に引き上げ、契約する地主にはさらに契約協力金を支払った。地代の総額約126億円、契約協力金等を含めると約6倍に引き上げられた。2001年、地代は850億円にまで膨れ上がった(『沖縄タイムス』2002.7.3)。

一坪反戦地主運動

 1971年12月、契約を拒否する3,000人が中心となって、「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主会)が結成された。それに対して日本政府はありとあらゆる手段で切り崩しを図っていった。反戦地主は5年後には約500人、10年後には200人になった。

 2000年の時点で軍用地主は土地連加盟約3万人、那覇防衛施設局との直接契約約2,000人、一坪反戦地主を除く反戦地主が約100人である。

 1982年、日本政府の圧力に耐え抜いてきた反戦地主を支えるため、一坪反戦地主運動が始まった。反戦地主の土地の一部を譲り受け、一人1万円を出して登記した。米軍用地特措法が開始された同年12月833名の一坪反戦地主が結集し設立総会が開催された。

契約拒否を貫く反戦地主たち

 故阿波根昌鴻(1903年~2002年)さんは沖縄戦当時伊江島に住んでいた。島には東洋一といわれる旧日本軍の飛行場が建設された。島は戦場となり、多くの住民が戦闘に巻き込まれ犠牲になった。阿波根さん夫婦は命拾いをしたが、最愛の息子を失った。その後、米軍によって慶良間諸島へ移住させられ、2年後、島に帰ってきた。ところが1955年、米軍の焼き討ちにあい土地を奪われる。他の住民と共に、幾度も琉球政府に陳情し、「乞食行進」をして全島を回り訴えた。1970年には学び合う場として団結道場を建設した。戦争と平和に関する歴史を次代に伝え、二度と戦争を起こさせないため、1984年に「ヌチドゥタカラの家 反戦平和資料館」を設立した。その後、資料館を訪れる人々に反戦平和を説きつづけた。阿波根さんはあらゆる機会に克明な記録をとり、資料を収集した。その一部が反戦資料館に展示されている。2002年3月21日永眠。阿波根さんの土地は今も金網の中にある。

 

 上原太郎(1912~)さんは那覇市具志で生まれた。1946年11月名古屋から引揚げてきた。すでに具志地区は米軍の金網に囲まれていた。しばらくして、具志区民は米軍の許可を得ないまま自分の屋敷に移り住み、ふたたび畑を耕し始めた。何事もなく7,8年が経過した。1953年11月17日、米軍は無線標識を作るから農作物を取り除くようにと通告してきた。区民は強制接収を止めるよう陳情を繰り返した。しかし、米軍はこの陳情を聞き入れなかった。12月5日完全武装した米軍がやってきた。区民は子供から年寄りまで座り込みをして抵抗したが米軍は強行した。現在、この土地は自衛隊那覇分屯地のなかにあり、1982年上原さんの土地は返還されたが金網に囲まれ、通行証がなければ入れない状態にある。それでも、戦争のために土地は貸さないと契約を拒否し続けている。

 

 島袋善祐(1936~)さんは沖縄戦の時9歳だった。キャンプ・シールズ内に土地をもっている。1977年の法的「空白の4日間」の時には家族と共に先祖伝来の土地にトラクターを入れ耕し、魔よけのニンニクを植え、アヒルを放した。つねにユニークな発想で反基地運動を展開し、反戦平和を希求する多くの人々に勇気を与えてきた。バラ園を営んできたが現在は息子に譲り、平和活動に力を注いでいる。

 

 有銘政夫(1931年~)さんはサイパンで生まれた。父親サイパンの戦闘で失った。1946年、家族7人は沖縄に引揚げてきた。父親が弟に頼んで買い求めてもらった土地は、すでに嘉手納基地の金網で囲まれていた。高校卒業後、教員をしながら土地闘争、B52撤去運動、毒ガス撤去運動、復帰運動、と平和に繋がるあらゆる運動にかかわってきた。現在は「沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議」の議長を務めている。

 

 池原秀明(1943~)さんは沖縄市知花に住んでいる。昼間は県庁に勤務し、夜は米軍の眼をかいくぐり、ヘッドライトを着け、妻と共に黙認耕作地の中にブロックを積み上げ豚舎を建てた。1982年に「米軍用地特措法」摘用外となり土地は返還された。現在は養牛へ転換。牛舎は嘉手納空軍基地離発着コースの直下にあり、米軍機が頻繁に飛び交う。94年4月には、墜落したF15の車輪が牛舎から十数メートルのところに落下した。現在は養牛の傍ら沖縄市の議員も勤める。

 

 真栄城玄徳(1942年~)さんは旧越来村(現沖縄市)で生まれた。沖縄戦のとき本島北部へ疎開、父を沖縄戦で失った。収容所から帰ってくると故郷は嘉手納基地に変わっていた。母親は女手一つで子供たちを育てた。復帰後、一貫して契約を拒否し続けた。その損失補償金で妻の栄子(1941年~)さんとともに、子供たちのための「くすぬち平和文化会館」を建設した。くすぬちとはクスノキのこと。生前祖母が慕っていた庭のクスノキを名前につけた。

反基地闘争を支えてきた反戦地主

 契約拒否地主は反戦地主会に入っている人もいれば入っていない人もいる。それぞれの立場で基地に土地を提供することを拒否してきた。

 1995年、契約拒否地主の代理署名を大田昌秀知事が拒否した。拒否できたのは反戦地主の闘いがあったからである。国の委任事務を拒否したとして知事は総理大臣に訴えられた。それに対し、沖縄県側は23人の反戦地主の証人申請をしたが却下された。結果は敗訴。

 1999年「米軍用地特措法」の改定により、総理大臣が代理署名することで強制使用できることになった。  国民の権利よりも、国益が優先にされるという憲法と矛盾する法律が成立したのである。

【参考文献】
◇『沖縄・反戦地主』/新崎盛暉著/高文研発行/1995年発行/沖縄基地問題の教科書 ◇『反戦地主の源流を訪ねて』/本永良夫編著/あけぼの出版発行/1997年発行/反戦地主の生き様を紹介

 

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