高江で今日あったこと - 10月15日のCH53米軍ヘリ墜落緊急抗議集会にて
高江で今日あったこと
10月15日正午、高江の北部訓練場メインゲート前で、「CH53米軍ヘリ墜落緊急抗議集会」があった。衆議院選挙期間中にもかかわらす、約200名の県民が集まった。
集会は、東村の村議伊佐さんの挨拶から始まった。...
高江区の緊急代議員会で、「もう優しい言葉では抗議できない」、「完成したすべてのヘリパッドの使用中止を求める」と、決議したとの報告があった。
今までヘリパッド建設反対の運動に参加したことのない青年も、「米軍車両が来たら座り込んででも止める」と言っている。高江の人々は何事につけ控えめで、表に出たがらない人が多いけど、このヘリの墜落炎上事故で、怒りは頂点に達してると。
高江区長も、今日の集会に誘ったが、メディアへの対応に疲れて神経が参っている。それで、せめてもとメッセージが寄せられ、伊佐さんが代読した。
みなさん、常日頃からヘリパッド建設反対行動してくださり、感謝申し上げます。再三集落の上は飛ばないで、と抗議し続けたのも虚しく、この現実を突きつけられてショックを受けています。これまでの行動がなんだったのだろうと。これからどうしたらいいのだろうと、いろいろと考えていると、頭の中が空回りしてまとまりません。参加できなくて申し訳ありません。しかし、みなさんと気持ちは一つです。ヘリパッド使用禁止にむけて頑張りましょう
島ぐるみの北部三村(東、国頭、大宜味)のメンバーなども次々とマイクを握ったが、うるま市から来たYさんのスピーチを紹介したい。
70才をこえるYさんは、クバ笠をかぶっていつも辺野古、高江に座り込みに来ている。
私がこのヘリの事故の一報を聞いて、頭をよぎったのは、私が高校三年生の時のことです。石川高校にいました。
三校時がおわり教室を移動しようとしたら友達が、『おい、ジェット機が墜落するよ』というんです。見ると煙りを吐いてジェット機が堕ちていく。あれは自分のうちに墜ちるんじゃないかと思って、教科書を放り投げて走っていったら、ずっと北のはしの方で燃えている。あれは宮森小学校じゃないか。私たち6、7名は走って行きました。
息を切らして裏門から入っていくと、子供達がわあわあ叫んでいます。
そこは戦場でした。
大人が私たちに並べという。まだ消防車がきていないからバケツリレーで水を運んで消火にあたりました。消防車がやってきて、もういいからといわれた。米軍が子供達を次々と担架で運んでいくのが見えた。
ふと気がつくと、私たちと一緒に来た同級生の姿が見えない。
彼の家は小学校の裏門だったな、と思い出した。
彼の家に行ったら、家は燃えて跡形も無くなっていた。
彼はその近くで泣いている。
どうしたと聞いても返事してくれない。
近くにいた大人が、彼のお母さんが亡くなったという。
私はその時の、その、何とも言えないような怒りが込み上げてきました。
Yさんのマイクを握る手が震えていた。
「あの時は18名の死者が出ました。200名あまりの負傷者が出たんです。
あの事故から58年たちましたよ。58年たって、先日のヘリの墜落事故でどうなりました?
日本に復帰したのに私たち沖縄県民はどうなの?平和になったんですか?
負担は減っていますか?
基地は変わりません。強化されているだけです。
私たち県民はこのまま見過ごしてはダメです。
私たち一人一人が声を出して、
いや声を出すだけじゃ足りない、
行動を起こさないとだめなんです。
辺野古の座り込みに杖をついていつも参加する宜野湾のSさんも、80才を越えて高江まで駆けつけていた。(子供のときに沖縄戦を体験して、家族が米軍と日本軍に殺されている)。
Sさんが、真っ赤な顔でずっと、今にも泣き出しそうなのを堪えているのが見えた。No ospreyのプラカードを、両手で固く握りしめて。