腹話術師・いっこく堂さん - ちょっとでいい。知ってほしい。沖縄戦のこと。

f:id:freeokinawa:20171102011110j:plain

 

いっこく堂さん「なんくるないさ、で生きのびた歴史」 - 沖縄:朝日新聞デジタル

f:id:freeokinawa:20171102013256p:plain

 

 いっこく堂さん「両親の沖縄戦、語りつぐ責任がある」
聞き手・木村司2014年6月13日朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/ASG5M7RPTG5MTIPE038.html
■わたしと沖縄戦:下

 

「戦争」で思い起こすのは沖縄本島中部、沖縄市に住んでいた1970年暮れのことです。小学1年でした。眠っていたぼくを兄が起こして叫ぶのです。

 せんそうがはじまった。

 米軍による一方的な交通事故処理をきっかけに起こった「コザ暴動」でした。

 ぼくらはわけもわからないまま、家をでて嘉手納基地のゲートへ走りました。数分の距離です。ゲートの前に立つ米兵に向かって、住民が石や空き瓶を投げつけていました。兄も、ぼくも投げつけました。

 基地の前の道では次々と米軍関係者の車がひっくり返され燃え上がりました。

 両親は米兵相手の「サンドウイッチショップたまき」を営み、ようやく軌道にのったころでした。暴動後、米兵は基地の外にでなくなり、客は激減。大きな借金を抱えて閉店に追い込まれてしまいました。

 このころ、上空には頻繁にB52戦略爆撃機が飛んでいました。金持ちの友人の家にはガスマスクが準備してあったことも覚えています。家では祖父母や母が口癖のように「戦争のときはね」と語っていました。

 母は36年、名護市生まれ。8人きょうだいのうち4人を、沖縄戦南洋群島の戦争で失いました。

 母は生まれてすぐに、両親に連れられて南洋群島パラオに移住。日本が統治していた南洋には、貧しかった沖縄からたくさんの人が仕事のために渡った。

 パラオで、3人の弟が生まれた。そこにも戦争がやってきました。爆弾が次々落とされるなか、母は3歳くらいの弟のお守りをしながら防空壕(ごう)に隠れていました。弟が泣いてしまうと、日本兵が言ったそうです。「うるさい、出て行け」

 もう生きていても仕方がない。そう思った母は壕を出て、あてもなく歩きました。幸運にも爆弾には当たらず、生き残りました。

 山の中に隠れているときは花も、葉っぱも、トカゲも、カエルもなんでも食べて飢えをしのいだそうです。それでも3人の弟のうち、2人が栄養失調で死んでしまいました。

 沖縄には姉2人、兄2人が残っていて、沖縄戦のとき本島北部の山に逃げたのですが、マラリアにかかって2人が亡くなりました。

 35年生まれの父親も南洋のポナペ島(現ポンペイ島)にいました。沖縄戦の1年以上前、近づく米軍から逃げるため、沖縄へ引き揚げる船に乗り込みました。その船が攻撃を受け海に投げ出されましたが、九死に一生を得たそうです。

 ぼくはいま、両親が体験した戦争のことを、18歳の娘に意識して伝えています。戦争に関するニュースが流れているときなど、さりげなく。

 「うちのおじいちゃん、おばあちゃんは大変だったんだよ」「あのとき爆弾に当たっていたら、お父さんはいなかったんだ」

 幼いころは正直、母親らの話を遠い昔のこととしか聞いていませんでした。でも少しずつ、そうした話がとても大切なことなんだと気づくようになりました。

 いまはまだ戦争を体験した方たちが生きている。戦後100年になったらどうだろうか。体験者はいなくなり、戦争が本当に昔のことになってしまう。

 沖縄戦を体験した子や孫の世代であり、当事者から話を聞くことができたぼくには、語りついでいく責任があると感じています。

 

(聞き手・木村司)

     ◇

 1963年、神奈川県生まれ。本名・玉城一石(たまきいっこく)。5歳から高校卒業まで両親の故郷・沖縄で暮らす。舞台俳優を経て、92年に独学で腹話術を始める。英語や中国語を使い、欧米・アジアなど各国でツアー公演を行う。著書に子ども向けに半生をつづった「ぼくは、いつでもぼくだった。」。公演を収録したDVD「いっこく堂ひとりのビッグショー」も。

 

news every.-「ミンナが、生きやすく」

今年は終戦70年。戦争を体験した人たちが高齢となる中、every.では、若い世代が自分の祖父母などに戦争の体験を聞き、記憶を受け継いでいく特集を毎週、放送しています。

 

腹話術師のいっこく堂さん(52)は沖縄県出身。1ヶ月ぶりに故郷・名護市に戻り、父・吉弘さん(79)と母・京子さん(79)の戦争体験を聞きました。

ikkokudo_150623_01.jpg

 

いっこく堂さん、実は去年初めて、父・吉弘さんがサイパンで生まれたことを知りました。サイパンパラオ諸島などの島々は19世紀後半からドイツが支配していましたが、第一次世界大戦でドイツが負けると、日本の委任統治領となりました。当時、島々には新天地を求めて10万人の日本人が移住。特に沖縄の人が多く、吉弘さんの両親(いっこく堂さんの祖父母)もそうでした。吉弘さんが3歳になる頃にはサイパンからポナペ島(現・ミクロネシア連邦ポンペイ島)に移住。島には当時、日本人だけの集落があり、喫茶店や理容店などもあって生活には困らなかったといいます。

 

「ポナペ島ではよく木登りをして遊んでた。木に登って、目の前に海があるから、日本の軍艦が何十隻ととまっているのを見てた」

 

日本は、統治した島々を太平洋の重要な拠点と位置づけ、インフラや産業を整備。また、現地の人たちには日本語による教育を行いました。
やがて太平洋戦争が始まると、島は緊迫感に包まれたといいます。
「戦争が始まる気配は感じてた。空襲警報の訓練をしたり。空襲警報が鳴ると、皆部屋の明かりを消して、電球には明かりが漏れないように黒い布をかぶせた」

 

その後、太平洋上でアメリカ軍と日本軍の攻防が激化し、ポナペ島にも危険が迫ると、吉弘さんは母や妹とともに輸送船「夕映丸」に乗り込み、日本へと向かいました。しかし、ポナペ島を出発して3日後、船はアメリカ軍の空襲にあい、沈没してしまいます。1944年2月17日、吉弘さんは9歳でした。

 

ikkokudo_150623_02.jpg

 

「戦争が始まるということで、沖縄に帰りなさいと船に乗った。ところがトラック諸島でやられた。爆弾が落ちたけれど、船の真ん中ではなく錨(いかり)がある前方に落ちたから、ゆっくり沈んだ。その間に助かった。海では丸太か何かにつかまって泳いだ」

 

吉弘さんは自力で近くの島まで泳ぎ助かりますが、母親とはぐれ、再会したのは1週間後のことでした。


偶然にも船の上で出会った朝鮮人が顔を覚えてくれていて、流れ着いた島で「お母さんはあっちにいるよ」と連れて行ってくれたのだといいます。その後、一家は無事、沖縄へたどり着きました。

 

一方、母・京子さんは戦前戦中をパラオ諸島コロール島で過ごしました。沖縄から移住した京子さんの両親(いっこく堂さんの祖父母)は農業を営み、京子さんと弟3人を育てていました。しかし、太平洋戦争が始まった直後、39歳の父親召集令状が届きます。この時、京子さんは6歳でした。


パラオのアルミズというところに神社があって、大きな鳥居があった。そこに3つ年下の弟とふたり、お父さんを見送りに行って。今でもあの神社に行った時のさびしいという気持ち、兵隊の帽子をかぶって行く父の姿を思い出す。あれは、弟と2人しか見ていない。お母さんはショックで行く気力もない。うちに座ったまんま。だから私と弟が2人で見送って、それっきり。どこで亡くなったかもわからない」


これが父親を見た最後となりました。

 

1944年3月。パラオ大空襲があり、コロール島も戦場となりました。当時8歳になっていた京子さんは、母親と弟たちとともに何度も防空壕に逃げました。しかしある日、居合わせた日本兵からある言葉が投げつけられます。京子さんは今でもこのときのことが忘れられません。


「『1人の子供の泣き声に1000人の命がかかっているから、あんたたちは防空壕から出ていきなさい』と言われて出されちゃった」


防空壕の中で1歳になる弟が泣けば、アメリカ軍に見つかって全員が殺されてしまうというのです。防空壕を追い出された一家は、行くあてもなく野をさまよいました。


「原っぱへ行ったら機銃の弾がビュンビュンと音がして、耳のそばをシューシューって飛んでいく。どこかで小型爆弾が落ちて、ボーンという音とか、いろんな音が聞こえてくる。早く弾に当たって死のう、どうせ生き残れないから早く死のうと言って原っぱに出ていくけれど、みんな地べたにへばりついて...弟たちも泣かないでへばりついている。人間って、早く死のうといっても、やっぱり無意識には死にたくないわけ」

 

ikkokudo_150623_03.jpgikkokudo_150623_04.jpg

 

その後、アメリカ軍の攻撃から逃れるためジャングルへ。カタツムリやカエル、トカゲなどを捕まえ、飢えをしのぎました。


「母親は私が食べないと棒で頭をたたいて食べさせるの。でも、おっぱいを飲んでた弟が最初に亡くなった。お母さんが食べるものがないから、おっぱいが出なくなって...。朝起きたら動かなくなってた。その次に亡くなったのが、『食べ物が汚い』といって食べなかった3つ年下の弟。いつもだったら早く起きるのにちっとも起きないから起こしに行ったら亡くなってた。その時は、かわいそうという感情もなくて、あぁ亡くなったよ、これでおしまい、悲しい気持ちなんて何もない。だって自分たちも生きて沖縄に帰れるなんて思っていない。早いか遅いかというだけで、いずれはみんな死ぬと思ってたから」

 

京子さんは、飢えで弟2人を亡くしました。そして9歳の時、パラオ終戦を迎えました。

 

一方、命からがら沖縄に戻った父・吉弘さんは、1944年10月10日の空襲で沖縄への本格的な攻撃が始まると、自宅のあった名護市の山に隠れました。当時9歳。一家はそのまま地上戦が終わるまで、アメリカ軍の存在におびえながら山での生活を1年間続けました。戦闘が終ると、何人もの亡くなった日本兵が、山間を流れる川に倒れているのを目撃しました。それはそれは悲惨な光景だったといいます。

 

戦争に翻弄されたいっこく堂さんの両親。最後に、こう話してくれました。


父・吉弘さん「子供や孫には絶対に戦争の苦しい思いをさせたくない。人殺しは敵も味方も嫌じゃないですか。戦争は自分らだけで十分です」
母・京子さん「沖縄の人は夢を持って南洋諸島に働きに行き、木を切って畑にするまで大変な労力がかかったのに出来たとたんに戦争になっちゃった...。なんであんな目にあってしまったのか。もう、戦争だけは嫌です」

 

ikkokudo_150623_05.jpg

 

両親の体験を聞いたいっこく堂さん。何を感じたのでしょうか。
「うちの両親はふたりとも何回も死にかけて...そんな中で奇跡的に生き残っている。僕が存在する意義がここにある。個人個人だと恨みがないのに、なぜ国と国になると戦争になってしまうのか。子供たち、それから今後自分に孫ができたら、伝えていく責任があるんじゃないかなと思います」

 

※文章中の年齢はOA当時