大田さん (元沖縄県知事) の生きのびた壕を発見
故・大田元知事が生きのび投降した壕を発見。
沖縄戦に関する写真を多数公開していた「沖縄国際平和研究所」も今年九月に財政難で閉鎖されましたが、歴史研究や政治や経済、沖縄の戦後史を大田さんなくしては語ることはできません。
なんらかの形で大田さんと沖縄の戦後史をみつめる資料を離散させないでまとめて展示できる資料館などを作ってほしいです。
大田さんは常に子どもたちが犠牲になる戦争というものの実相を私たちに伝えようとしてきました。
大田さんのレガシーを今また私たちが受け継いでいきたいと思います。
元県知事で沖縄戦時、鉄血勤皇隊の一員だった故大田昌秀さんが米軍に投降するまで身を潜めていた病院壕(ごう)が、八重瀬町小城にあることが9日、分かった。「第24師団第2野戦病院2半部壕」で、沖縄戦のボランティアガイドらが初めて特定した。
大田さんは自伝を含め、沖縄戦に関する多くの著書を残したが、米軍に捕らわれた場所は明示していなかった。
大田さんは沖縄師範学校男子部在学中の1945年3月、鉄血勤皇隊として日本軍に動員された。首里の司令部壕を5月に出た後、糸満市摩文仁など県南部を転々。9月下旬ごろ、「八重瀬周辺の野戦病院」で投降した。それがどの壕だったのか分からないまま、今年6月に92歳で亡くなった。
県平和祈念資料館友の会の事務局長、仲村真さん(62)=浦添市=が9月ごろ、大田さんと同じ壕にいた元日本軍軍医の手記を発見。地元ガイドの金城優さん(77)の協力を得て、9日、現在の小城公民館から南東に約200メートルにある壕を確認した。
元軍医の手記によると、壕の建設は45年2月上旬に着手され、2カ月ほどで完成した。「ヨ」の字形の内部には50メートルの通路が3本あり、最高300人余りの負傷者を収容したという。高さ約30メートルの丘にあったが、現在は入り口も岩でふさがれ、内部の様子はうかがい知れない。大田さんはこの壕で、45年8月中旬から1カ月余り身を潜めた。
この日は、大田さんが理事長を務めた沖縄国際平和研究所(9月末に閉館)の関係者も同行し、壕の跡を確認した。元スタッフの藤澤英明さん(53)は「大田先生の顔が目に浮かんできた。確認できて本当に良かった。当時は多くの日本兵や日本人が隠れていた。戦跡の一つとして、記憶されるべき場所だ」と話していた。
内容保存の為、現在残っている沖縄国際平和研究所の HP を記録しておきます。
■沖縄国際平和研究所が目指すもの■
○国内外の戦争と平和について学術的分野から多角的に研究を進めるとともに、さる沖縄戦で県民が経験した真実とその要因を徹底的に解明する。
○沖縄の伝統的平和思想の由来を探り、県民が誇りにする平和希求の強さを踏まえ、国際平和の創出に寄与できる体制を培う。
○沖縄にとっての諸悪の根源をなす基地問題の解決を図り、「基地の島」を「平和のメッカ」に変える活動を先導する。
○「積極的平和」の醸成に努め、平和教育の推進と「基地経済」からの脱却、自立経済の確立に努める。
○反戦平和志向の人材育成と国際的ネットワークづくりを展開する。■沖縄国際平和研究所が行う事業■
そのために、沖縄国際平和研究所は次のような事業を行います。
○前記の目的を達成するための関連文書の調査。収集。
○沖縄戦と広島・長崎の原爆写真・ドイツのホロコースト・朝鮮戦争や日中戦争のジェノサイド写真の
常設展示と、それらのフィルム上映活動。
○平和講演やシンポジウムの開催、平和学・平和研究者への指導と助言。
○戦争と平和に関連する文書資料や図書の出版と販売■ごあいさつ■
沖縄国際平和研究所 理事長 大田昌秀
私は沖縄県知事時代、平和行政の三本柱として、
(1)平和祈念資料館の移設と展示内容の充実
(2)敵味方の別なく、軍人・非軍人を問わず沖縄戦で戦死したすべての名前を刻印して永久に残す「平和の礎(いしじ)」の建立
(3)沖縄国際平和研究所の創設、
を目標に揚げました。幸い県議会と県民のご支持を得て前二者の目標は実現できましたが、(3)の目標は時間切れで実現できませんでした。
そのため県から身を退いて後、個人的平和研究所を設立、沖縄戦と基地問題のほか平和問題などの研究に取り組んできました。しかし、個人的研究所では時代の要請にこたえることができないだけでなく、沖縄が直面している解決困難な問題にも適切に対応できないことを痛感するようになりました。
そのため、今年2013年の新年を契機に決意も新たに個人的研究所を念願の沖縄国際平和研究所に衣替えすることにしました。が、何分新芽を出したばかりなので、江湖の皆様お一人ひとりの物心両面からのご支援を賜り立派に育て上げることを切願する次第です。
昨今の経済的不如意の状況下でお願い申し上げるのも心苦しい限りですが、私たちが沖縄のために多少なりとも貢献ができますよう温かいご協力を頂けたらこの上なく幸甚に存じます。
沖縄国際平和研究所 理事長
大田昌秀・プロフィール
1925(大正14)年6月 沖縄県久米島具志川村(現久米島町)に生まれる。 1941(昭和16)年 沖縄師範学校に入学 。 1945(昭和20)年 沖縄師範学校2年在学中に、鉄血勤皇隊の一員として沖縄守備軍・第32軍に動員される。同隊の情報宣伝部隊である「千早隊」に所属し、10月に捕虜となって生還するまで、沖縄本島南部の日米最後の激戦場を生きる。 1946(昭和21)年8月 沖縄文教学校を卒業 。 1948(昭和23)年3月 沖縄外国語学校を卒業 。 1951(昭和26)年 早稲田大学に入学、教育学部で英語を学ぶ。 1954(昭和29)年 早稲田大学を卒業し、米国シラキュース大学大学院に留学。ジャーナリズムを学ぶ。 1956(昭和31)年6月
10月同大学大学院修士課程を修了。 1958(昭和33)年7月 琉球大学講師(文理学部社会学科)となる。
<1963年~1964年 東京大学新聞研究所で研究>1968(昭和43)年4月 琉球大学社会学科教授となる。
<1968~1970年 東京大学新聞研究所で研究>
<1973~1974年 ハワイ大学東西文化センターで教授・研究>
<1978~1979年 フルブライト訪問教授として米国アリゾナ州立大学にて教授・研究>1983(昭和58)年 琉球大学法文学部長となる(~1985年)。 1990(平成2)年3月 沖縄県知事選挙に出馬のため琉球大学を辞職。 1990(平成2)年12月 沖縄県知事となり、1998年まで2期8年、「平和」「沖縄の自立」「共生」を目標に全力を傾注する。 1991(平成3)年1月 大田平和総合研究所(現沖縄国際平和研究所)を立ち上げる 2001(平成13)年6月 参議院議員となる(社民党 ~2007年)。 2013(平成25)年6月 特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所設立。
2017年(平成29年)- 6月12日、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去。92歳でした。
沖縄戦・ホロコースト写真展示館
沖縄戦・ホロコースト写真展示館は、沖縄国際平和研究所理事長・大田昌秀の「戦争のない平和な社会創出」への熱い思いによって開設されたもの。
大田昌秀は、1945(昭和20)年、太平洋戦争最後の激戦となった沖縄戦に鉄血勤皇隊の一員として動員され、沖縄本島南部の激戦場に投入されたが、奇跡的に生還。以来、戦後67年間、沖縄戦とは何かを問い続けてきた。
沖縄戦・ホロコースト写真展示館は、沖縄国際平和研究所の1階と1~3階のロビーにある。この展示館に展示されている写真のテーマは大きく三つである。中心は、①沖縄戦を伝える写真(約1,000点)。この写真群は、大田昌秀が米国を中心に何度も足を運び収集してきた沖縄戦関連写真数千点の中から厳選したもの。②広島、長崎原爆関連写真、ホロコースト、日中戦争や朝鮮戦争でのジェノサイドの写真(約50点)、そして③戦後沖縄関連写真(約900点)である。
戦争を知らない世代に「沖縄戦」の実相を知ってほしいとの思いからできた「沖縄戦・ホロコースト写真展示館」。その詳しい内容を紹介しよう。
大田昌秀著書リスト
平和で豊かな沖縄を切望して50数年、70冊余りの著書にあらわれています。できるだけ多くの皆さんに読んで頂きたいです。
No 著書 出版年 出版社 1 沖縄健児隊(共)「血であがなったもの」 1953年 日本出版共同株式会社 2 父の戦記(共)「<沖縄>野を紅に染めて・・・」 1965年 朝日新聞社 3 沖縄の言論ー新聞と放送ー(共) 1966年 南方同胞援護会 4 沖縄の民衆意識 1967年 弘文堂新社 5 醜い日本人ー日本の沖縄意識ー 1969年 サイマル出版会 6 現代の差別と偏見(共) 1969年 新泉社 7 沖縄県史 第二巻各論編ー(共)「大正・昭和期の県政」 1970年 沖縄県教育委員会 8 拒絶する沖縄ー日本復帰と沖縄の心ー 1971年 サイマル出版会 9 沖縄経験ー大田昌秀・大江健三郎(共) 1971年 沖縄経験刊行会 10 沖縄の心ー沖縄戦と私ー 1972年 岩波書店 11 近代沖縄の政治構造 1972年 勁草書房 12 沖縄の今と昔(共)「首里城下町の回想」 1973年 月間沖縄社 13 沖縄県史 第五巻各論編四文化ー(共)
「新聞・放送」1975年 沖縄県教育委員会 14 伊波普猷-人と思想ー(共)
「伊波普猷の思想とその時代」1976年 平凡社 15 沖縄学の黎明「伊波普猷の学問と思想」
ー伊波普猷誕生百年記念会編ー(共)1976年 沖縄文化協会 16 沖縄崩壊 1976年 ひるぎ社 17 これが沖縄戦だー写真記録ー 1977年 琉球新報社 18 鉄血勤皇隊 1977年 ひるぎ社 19 岩波講座 日本歴史二三現代二(共)
「占領下の沖縄」1977年 岩波書店 20 那覇市史 戦後新聞集成ー資料篇第三巻三(共) 1978年 那覇市企画部市史編集室 21 日本占領軍ーその光と影・下巻(共)
「<対談>軍政下の沖縄」1978年 徳間書店 22 戦争と子供
ー父から、戦争を知らない子たちへー1980年 那覇出版社 23 沖縄人とは何か 1980年 グリーンライフ社 24 日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」
「憲法改悪反対運動入門」(共)1981年 オリジン出版センター 25 This War The Battle Of Okinawa 1981年 那覇出版社 26 総史沖縄戦 1982年 岩波書店 27 沖縄ー戦争と平和ー 1982年 社会新書 28 沖縄久米島?沖縄久米島の言語・「戦時下の久米島」文化。社会の総合的研究報告書(共)「社会についての一考察」 1982年 弘文堂 29 沖縄の帝王ー高等弁務官 1984年 久米書店 30 那覇十・十大空襲 1984年 久米書店 31 The Battle of Okinawa -The Typhoon of Steel and Bombs - 1984年 久米書店 32 平和に願いをこめて(一二)沖縄戦後編
「いくさやならんどー」(共)1984年 第三文明社 33 沖縄戦没者を祀る慰霊の塔 1985年 那覇出版社 34 沖縄戦とは何か 1985年 久米書房 35 写真集・沖縄戦後史(共) 1986年 那覇出版社 36 日本占領の研究(共)
「アメリカの対沖縄戦後政策」1987年 東京大学出版社 37 西原町史「西原の戦時記録」第三巻資料篇
西原の戦時記録(共)1987年 西原町役場 38 The U.S Occupation of Okinawa and Postwar Reforms in Japan Proper 1987年 University of Hawaii Press 39 写真集・沖縄戦(監修) 1990年 那覇出版社 40 「平和」を語る 1990年 県民の会 41 検証 昭和の沖縄 1990年 那覇出版社 42 沖縄の挑戦 1990年 恒文社 43 「人間が人間でなくなるとき」
ジェノサイド1991年 沖縄タイムス社 44 沖縄を考える 大田昌秀教授退官記念
論文集1991年 大田昌秀退官記念事業会 45 見える昭和と「見えない昭和」 1994年 那覇出版社 46 世世世(筑紫哲也氏と対談) 1995年 沖縄タイムス社 47 ひたすらに平和の創造に向けて 1996年 近代文芸社 48 沖縄は主張する 岩波ブックレットNo.397 1996年 岩波書店 49 平和の礎 1996年 岩波書店 50 沖縄県知事証言 1996年 ニライ社 51 沖縄師範学校学生の実録 1998年 千早隊手記出版編集
委員会52 沖縄からはじまる(池澤夏樹氏と対談) 1998年 集英社 53 留魂の碑ー鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったかー 1998年 龍潭同窓会 54 これからの日本をどうするー自由の森大学講座ー(筑紫哲也 福岡政行編) 1998年 日本経済新聞社 55 大田沖縄県知事1~8年のあゆみ 1998年 大田昌秀政経文化研究会 56 沖縄 平和と自立への闘い
写真と記録で見る大田知事の2990日1999年 大田県政8年を記録する会 57 OKINAWA COLD WAR ISLAND 1999年 JPRI 58 ウチナーンチュは何処へ -沖縄大論争ー 2000年 実践社 59 沖縄の決断 2000年 朝日新聞社 60 醜い日本人 -日本の沖縄意識ー再販 2000年 岩波書店 61 The Essaya on Okinawa Problems 2000年 ゆい出版 62 沖縄、基地なき島への道標 2000年 集英社 63 血であがなったもの 2000年 那覇出版社 64 有事法制は、怖い
ー沖縄戦が語るその実態ー2002年 琉球新報社 65 沖縄差別と平和憲法ー日本国憲法が死ねば「戦後日本」も死ぬー 2004年 BOC出版 66 沖縄戦下の米日心理作戦 2004年 岩波書店 67 平和の礎特集号 大田昌秀参議院議員
国会活動3年間を振り返る2005年 大田昌秀後援会 68 日本にとって沖縄とは何かー沖縄戦の教訓と基地再編を問うー 2005年 大田平和総合研究所 69 死者たちは、いまだ眠れず 2006年 新泉社 70 沖縄の「慰霊の塔」 2007年 那覇出版社 71 沖縄戦を生きた子供たち 2007年 クリエイティブ21 72 徹底討論 沖縄の未来 2010年 芙蓉書房出版 73 こんな沖縄に誰がした 2010年 同時代社 74 二人の「少女」の物語 沖縄戦と子どもたち 2011年 新星出版