No pasarán! ② - 8 どんな嵐にも倒れない樹 - 瀬長亀次郎はガジュマルの樹が大好きだった。どんな嵐にも倒れない、沖縄の生きざまそのものだから。
ここ、沖縄では、
毎日毎日いろんなことがおこり、
前進しているどころか
じりじりと鉄板の上で焼かれながら
後退させられているようにすら思える。
何度も何度も絶望しそうになる。
それでも生きているかぎりはあきらめない。
がじゅまるの木のように、
どんな嵐にも倒れないよう、
がっしりと根を張り空に枝を伸ばす。
小さな命をまもる「ひんぷん」(塀) になれるよう
願いながら。
2017年の夏から秋を記録する。
どんな嵐にも倒れない樹「たあくらたあ」43号 2017Autumn¡No pasarán!別々の道「北朝鮮のミサイルが、北海道の上空を通過しました」NHKラジオのアナウンサーが、朝から繰り返し叫んでいた。米軍のラジオ放送に切り替えると、アメリカンフットボールの話題で盛り上がっていた。ニュースになっても、第一報はアメリカ本国のハリケーン災害だった。仕事をしながら聴いていたので、ミサイル発射のニュースもあったかもしれない。しかし、ラジオの雰囲気は通常どおり、スポーツと音楽であふれていた。米軍放送と、沖縄地元の放送と、全国放送の落差。いつものことだった。沖縄で流れている報道と、全国放送のあまりの違いに目眩がする。本土に帰省したときに、友人たちと久しぶりに会話をしても、沖縄のことがほとんど何も伝わっていない。今に始まったことではないが、特にここ数年、沖縄で起こる全国放送級のニュースがほとんど報道されない。高江のオスプレイパッド工事への、千人の機動隊派遣などまさにそうだ。「報道されない暴力」といっていい。前提となる情報量がまったく違う。沖縄と日本本土は、別々の道を辿り始めていると感じている。辺野古の海が見える丘その丘にのぼると、辺野古大浦湾が箱庭のように見える。手が染まりそうなくらい青い海だ。アメリカ海兵隊キャンプシュワブの対岸にある瀬嵩の丘は、辺野古の新基地建設反対のためゲート前を訪れる人にもあまり知られていない、観光化もされていない灯台跡地だ。
眼下の大浦湾をはさんで、遠く左手の岬には、マッチ箱のようなシュワブの兵舎が見える。米兵がバーベキューやビーチバレーをする砂浜がある。右手に向かうにつれて砂浜は消え、急な断崖が続くようになる。その崖の上にあるのが、海兵隊の辺野古弾薬庫だ。三角形のシェルターのような構造物が樹木のなかに見え隠れする。NHKスペシャルで、復帰前の沖縄に1300発の核ミサイルがあったことがスクープされた。今もこの弾薬庫に何があるのか情報は公開されない。米軍が辺野古にこだわるのは、この弾薬庫があるからと言われている。眼前に広がるコバルトブルーの海を、巨大なオレンジ色のフロートが、数キロにわたり封鎖している。防衛局に雇われた漁師の警戒船が、そのフロートに沿ってぽつりぽつりと浮かんでいる。フロート内には警備会社の船が24時間体制で常駐し、沖合には海上保安庁の巡視船が停泊している。海猿と呼ばれる海保の警備部隊のゴムボートが、轟音と波を蹴立てて走り回る。そして、クレーンのついた大型の作業台船や、ボーリングをするスパッド台船が、群れをなしてこの美しい海を占領している。続く微罪逮捕ゲートからは、1日3回、合計150台あまりの採石を積んだダンプが入るようになった。そのたびに座り込みの人々は排除され、長時間歩道の片隅に閉じ込められる。ダンプがゲートから出てくるまで、「監禁」は1時間を超えることもある。ここのところ仕事が忙しくてなかなかゲート前に行くことができない。国頭村の採石場から辺野古に向かうダンプの車列と、国道ですれちがうたびに胸が締め付けられる。採石場でダンプをとめる人々もいる。機動隊が駆けつければ簡単に排除されてしまうのだが、1時間でも車両が辺野古に向かうのを遅らせようと、必死の抗議行動が続いている。この場所で、やんばるの自然の素晴らしさを、川歩きをとおして教えてくれたYさんが、道路交通法違反で逮捕された。ダンプの前にプラカードを持って立っていたからと、手錠をかけられ名護署に連行された。70歳をこえるYさんは、1959年うるま市の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落した時に現場に駆けつけた一人だ。死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事だった。Yさんは高校生だった。戦場のような小学校で、無我夢中になって消火活動した。ふと気がつくと一緒に駆けつけた同級生の姿が見えない。同級生の家は学校の裏門前だった。家は焼けて跡形もなくなっており、彼はその前に呆然と座り込んでいたという。母親が亡くなったのだ。その時の何とも言えないやり場のない気持ちを忘れてたことはないと、Yさんはいう。逮捕された日、どんな思いで、砂ぼこり舞う炎天の採石場に立っていたのだろう。Yさんは3日間拘留された。こうした微罪逮捕が、この半年次々と続いている(辺野古の工事が始まって三年間で50人近い人々が逮捕されている)。もちろん不当逮捕なので、起訴されずに釈放される。Yさんは、那覇の検察に行く車の中で、警備課の警官達に、戦後の沖縄の基地反対運動の歴史を講義したそうだ。みな静かによく聴いていたという。「あれたちはゲート前にいるときと態度が全然違ったよ」と。ゲート前に監視カメラが増えている。座り込みの人々を撮影するだけでなく、沖縄県警の仕事ぶりも監視するためだという。迷走する防衛局4月下旬に辺野古で着工された護岸は、ゆっくりと確実に大浦湾を侵食していった。しかし岸から100メートルほど伸びたところで、作業はストップしてしまった。工事が始まって3カ月。今年は台風も来ていない。なぜ止まったのか、情報公開請求で驚きの事実が判明した。鳴り物入りで「辺野古本体工事着工」と、全国ニュースになったこの工事が、仮設工事だったことがわかったのだ。仮設というのは、役目をおえたら撤去するものだ。本来の計画では、この場所は仮設ではない。さらにこの護岸の沖合に造られる予定だった海上ヤード工事が、取りやめになった。ケーソンという巨大なコンクリートの箱を、仮置きする場所のはずなのに、それを造らないという。いったい何がおこっているのだろうか。ボーリング調査の結果、軟弱な地盤であることが判明し、設計を変更せざるをえなくなっているのでは、というのが反対運動を支援している専門家たちの見解だ。さらに前回この連載で紹介した大浦湾の断層が、活断層の可能性も出てきている。地質学の専門家の証言が、しんぶん赤旗のスクープで報道された。この先、知事権限や名護市長の権限で、工事は必ず暗礁に乗り上げる。それなのに1日あたり数億円単位の税金が、この無謀な公共工事に注ぎ込まれている。ジュゴンがもたらした吉報「国家歴史保存法」という法律がアメリカにある。日本ではほとんど知られていないこの法律には、こう書かれている。「海外のいかなる文化財も、米国は侵してはならない」「侵した場合は、何人も合衆国を訴えることができる」訴訟の一審は、「政治問題」を理由に門前払いになった。しかしこの8月、二審は、この一審の判断を覆した。天然記念物のジュゴンは、訴訟を起こす資格があり、「政治問題」でもない、とした。この判決は、辺野古の新基地建設工事に間違いなく大きく影響する。ジュゴンの保護が尽くされているか、調査しなおさないといけなくなったからだ。防衛局は、ジュゴンが「辺野古地先を利用する可能性は小さい」といい、その見解をもとにアメリカ国防総省は「ジュゴンへの影響はない」という。しかし、沖縄本島に10頭あまり、防衛局の環境アセスでは3頭しか報告されていないジュゴンのうち、大浦湾をすみかにする1頭が2年前から姿を消してしまっている。親子連れだったジュゴンの独り立ちした子供の方だ。このジュゴンの主食の海藻がある場所が、轟音を出す海上保安庁のゴムボートの桟橋だ。また辺野古集落に近い浅瀬(イノー)は、7種の海藻が生育するジュゴンにとって最高の餌場だが、仮設道路や護岸工事が始められている。沖縄の基地で事件事故がおきた場合、県や市町村などの自治体は、米軍に抗議はできる。しかし、法律や条約にもとづく交渉はできない。そういう面からもこの訴訟は、画期的だった。法的に沖縄の住民が、直接米軍を相手取り交渉できるルートを開いた。日本政府を通さないというところが最大のポイントである。日本政府は沖縄の邪魔しかしない。沖縄県の日本語の抗議文書を、意図的に異なる意味に英訳して米軍に渡す、ということまでする。高江のオスプレイパッド工事では、2万4262本の木が伐採され、この森にはなかった砂利が大量に敷き詰められた。「もう二度と元には戻らんよ」そう言っていた工事業者の言葉が忘れられない。やり直しの工事が、高江の森の中で続いていた。この夏、工事業者の出入りを止めようと早朝4時からの座り込みが何度も行われた。1日数時間ずつ工事は遅れたが、とうとう完成してしまった。それでも、これからも高江の座り込みは続く。オスプレイの運用停止、北部演習場の全面返還を目指して。ジュゴンは国の天然記念物だが、ノグチゲラは特別天然記念物だ。ジュゴン訴訟と同じノグチゲラ訴訟を、アメリカでおこすことは十分可能だ。アメリカではカリフォルニア州の陸軍基地で、キツツキの保護のために射撃場の閉鎖が行われた事例もあるという。高江の森には40カ所近いノグチゲラの営巣木がある。絶滅危惧種でもう3百数十羽しかいないノグチゲラが、この森には60羽近く生息している可能性がある。オスプレイが配備されたあと、高江周辺では5羽がバードストライクで窓にあたって死亡した。オスプレイの重低音が原因ではないかと、東村のノグチゲラ保護監視員は証言している。また、ジュゴン保護キャンペーンセンターの吉川秀樹先生が、渡米して「国家歴史保存法」を管轄するアメリカの連邦政府組織(ACHP=国家歴史保存法諮問委員会) を訪ねたとき、事務局長からこう言われたという。ACHPが動くために、沖縄から、米軍の環境破壊、法律違反についてのレポートを出してほしいと。日本政府を飛び越して米軍と直接交渉できるルートがあるのだ。新しいステージが、沖縄の人々には見えている。ゲート前に座り込みに行ってきた妻から、今日はYさんが元気に司会をしていたと聞いた。復帰前の「島ぐるみ闘争」で米軍と直接対峙した政治家の瀬長亀次郎は、ガジュマルの樹が大好きだった。どんな嵐にも倒れない、沖縄の生きざまそのものだから。
「ひんぷん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、三府龍脈碑を建てました。この石碑がひんぷんのように見えることからヒンプンシーと名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしかひんぷんがじまると呼ばれるようになりました。
ガジュマル(Ficus microcarpa L.f.)はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植裁されています。漢名は榕樹で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり、広く美しい樹冠をつくっていきます。ひんぷんがじまるは、推定樹齢 280~ 300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぷんがじまるは、まさに「市民の木」です。