¡No pasarán! ① 絶対に造らせない ― 辺野古の新基地 / 2014年のあの夏のこと
「ジュゴンの見える丘」 ── この景色の向こうに辺野古大浦湾がある
三年前の夏。
2014年7月1日、
そのちょうど同じ日、
彼らは辺野古の新基地建設の工事に着工した。
記憶こそが平和への路程を示す。
だから
僕たちのあの夏を忘れないために。
絶対に造らせない ― 辺野古の新基地「たあくらたあ」 34号(2014 Autumn)by H.A.
辺野古着工2014年7月1日、 集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされた同じ日、名護市辺野古では新基地建設の工事が着工されました。翌日の地元紙の一面を大きく飾った「集団的自衛権行使容認」と「辺野古着工」の見出し。いよいよ始まったか――。新聞を持つ手を固く握りしめました。辺野古の基地問題は、次男が1歳の1996年、日米両政府が普天間飛行場の返還に合意したことに始まります。以後18年、この間も米軍による事件・事故は数限りなく起こり、抗議の県民大会が何度も開かれ、そこに家族でどれほど参加したことでしょう。集会はたいてい突き刺すような暑い日差しの中でした。家族写真の中に、当たり前のように、普天間基地を人間の鎖で包囲している様子や、県民大会の会場で子供が疲れきって寝ている姿などがあります。抗議の集会には、家族でできるだけ参加してきました。しかし、生活の基盤づくりに取り組むのに精一杯で、辺野古の基地反対運動に積極的に関わることはしてきませんでキャンプシュワブのゲート前での抗議活動した。でもいよいよとなったら辺野古へ行こう、阻止行動に参加しよう、その気持ちを忘れたことはありません。妻と口に出して話し合ったことはありませんが、お互いにその日がくることは分かっていました。機動隊による住民排除の日ゲート前はまだ、警官や民間会社アルソックの警備員、マスコミの記者、座り込みの人たちが数名ずついるだけでした。先に来ていた座り込みの女性に話を聞くと、昨夜不意打ちで仮説ゲートが設置され、ブルーシートで覆われた中で何か工事が行われていたとのこと。そのブルーシートが取り払われ、ギザギザの異様な鉄板が現れました。しかし、その時はこの鉄板が何のために設置されたのか、誰もわかりません。大型車両のための道路の補強か? と思ったくらいです。これが後に新聞やネットで大問題になる「殺人鉄板」です。ゲート前の基地でもない歩道でもないスペースに、座り込みをさせないためです(映画『標的の村』の普天間基地の封鎖行動は、このスペースで繰り広げられました)国道に異変が起こり始めたのは7時少し前でした。工事用ゲート前に車両が集まり始め、30台以上が縦列停車しました。業者が全部到着したら一斉にゲートを通過するつもりです。その時、資材搬入を阻止しようと集まっていた人は20名くらい。1人の女性がゲートの錠を両手で握りしめ、鍵を差し込ませないようにしました。みんなでその女性を守るように取り囲みます。女性は握力が続かないのか、「誰か男の人、引き継いでください」と叫んでいて、そばにいたおじいが替わりました。50名あまりの機動隊員が押し寄せてきました。「威力業務妨害になります。直ちに退きなさい」。なかなか埒があかないのに苛立った古参の現場指揮官のような警官が、乱暴に割り入ってきました。そして私たちは力ずくで排除されました。「巨大な軍事基地の工事が始まり、その場で自分が何をしていたか、いずれ結婚して子供ができた時、なんと言って説明するの? 君たちは県民の命を守るために警察官になったんでしょう」と、警官に涙声でとつとつと訴えるおじさん。「おじい、おばあから沖縄戦の話を聞いて育ったんじゃないの? 戦争で沖縄がどんなめにあったか習ってきたでしょう。これは人殺しのための基地なんだよ。君たちが何でこんなものを造ることに協力しなくちゃならないんだよ」。私の目の前の数人の若い沖縄県警の機動隊員は、目を真っ赤にして泣きながら立ち尽くしていました。その横を業者のトラックや、トレーラーが次々と轟音を響かせ、基地の中に資材を搬入していきました。ゲート前で続く非暴力運動防衛省の設置した「鉄板」は意外な効果をもたらし、一目見ようと多くの人がゲート前にやって来ます。また、連日報道される海上保安庁の、カヌーで抗議する市民への暴力的対応を新聞で読んで、いてもたってもいられない人々が駆けつけて来るようになりました。その数は日を追って増えます。夏休みには、子供たちもたくさん来ました。中には辺野古の問題を夏休みの自由研究にし、座り込みの人々を取材する中学生もいました。ゲート前の抗議行動は、沖縄平和運動センターの山城博治さんが指揮をとっています。アジの威勢のよさ、機動隊との交渉は誰にも引けをとりません。先日も海上保安庁に拘束されたカヌー隊のメンバーを取り戻すため、巨大な巡視船に小さな舟から拡声器をもってよじ登り、拘束されたメンバーを取り戻すまで一歩も後に引きませんでした。ゲート前では毎日、午前9時頃から抗議行動が開始されます。「新基地建設、反対」「この海に基地はつくらせないぞー」とシュプレヒコールをあげ、出入りする工事用車両を一分でも長く足止めするため、ゲート前を何度も往復します。時には立ち止まり、「沖縄を返せ」「安里屋ユンタ」、地元の反戦歌「二見情話」を三線に合わせて皆で歌います。子供たちが「手のひらを太陽に」を合唱したこともあります。座り込みをする人々と警官や警備員とのやり取りに、沖縄らしさを感じます。どしゃぶりの雨の中、抗議を続ける人々と対峙する警備員、彼らがカッパも着ていないのを見て「防衛施設局はカッパも支給しないのか」と猛抗議をし、警備の担当者と話し合いを行い、警備員が交代でびしょ濡れの服を着替えるという一幕もありました。一、反米的にならないこと一、怒ったり悪口を言わないこと一、軍を恐れてはならない一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること辺野古で繰り広げられている光景をみると、これが沖縄なんだ――と胸に来る瞬間があります。8・23県民集会8月23日、午後1時、辺野古へ車を走らせました。ゲートに近づくにつれ、路肩に止める車の多さに驚きました。そして、人、人、人の波。大型バスから続々と人が降りてきます。漁港の方からも、小学生、中学生からおじい、おばあまで様々な世代の人々が黙々と歩いて丘の上のゲートを目指して登ってきます。それぞれに工夫したプラカードや横断幕、幟を手に。皆の顔が上気しています。とうとうこの日が来たという興奮です。「キャンプシュワブのゲート前に立場を越えて、世代を越えて、ウチナーンチュの魂と良識が結集した。隣に立っている人たちの顔を見てほしい、互いに確かめ合ってほしい。この力をもって私たちはしなやかに、そしてしたたかに、ウチナーンチュの尊厳にかけて、ジュゴンのすむ美(ルビ・ちゅ)ら海で新基地建設を進めようとする両政府に反対の声をあげ続けていこう」次々とメッセージを語るうりずんの会の国会議員のメンバー。どの演説もよかったのですが、島ぐるみ会議共同代表の平良朝敬さん(沖縄のホテル大手「かりゆしグループ」CEO)が登場し、「私は52年間観光産業に従事してきた。観光は平和産業であり、平和なくして成り立たない。基地と観光は共存できない」と言い切った時、ひときわ大きな拍手が起きました。そして、一番盛り上がったのは、毎日現場で防衛施設局や沖縄県警、海上保安庁と向き合っているヘリ基地反対協議会の安次富浩さんが、続々と集結し続ける人々に万感胸に迫り、「今日、私は確信しました。この戦いはぜ・っ・た・い・に勝てる」 と叫んだ瞬間です。沖縄県警機動隊の若い警官は、集会参加者が国道にはみ出さないための指導で右往左往していましたが、年配の警官ほど顔をほころばせ嬉しそうでした。先日、ゲートを封鎖した私たちに乱暴な対応をした現場の指揮官と思われる警官が、「反対派もやるなあ」という感じで苦笑いしながら、顔見知りになった座り込みのおじさんに話しかけているのを見ました。真っ黒に日焼けした麦わら帽子のおじさんは泣きそうでした。自分も嬉しくて涙が出てきた。「辺野古の海には海上保安庁の船がびっしりと浮いている。69年前、沖縄戦の開始とともに沖縄を軍艦が取り囲んだ、あの光景とまったく同じだ。この国はどこに向かっているのか」。静かで力強いメッセージで、「ジュゴンを守り、絶対に新基地建設を止めよう」と訴えました。沖縄の実績デモや座り込みでは何も変わらない、と言う人がいます。しかし、沖縄には当てはまりません。住民が座り込みや体を張った非暴力の抵抗運動で、基地の拡張や新設を阻止し続けてきた歴史があるのです。昆布土地闘争(1966年~1971年)伊武岳実弾射撃演習阻止(1970年)104号線越え実弾演習阻止(1973年~1976年)安波ハリアーパッド建設(1987年)P3C対潜哨戒機基地建設(1987年~2008年)都市型施設建設阻止(1989年)高江ヘリパッド建設阻止行動(2007年~)そして、「辺野古の新基地建設反対座り込み阻止行動」(2004年~)*辺野古へのアクセスについては、ヘリ基地反対協議会のホームページに詳しい情報が載っています。
この ¡No pasarán! とは
スペイン語で「奴らを通すな」
ファシズムに抵抗したスペイン市民革命のとき使われた合言葉。
To be continued ...