普天間。かつてあった普天間の美しい町並みの遺構を少しでも残したい、私たちの先祖が生きた土地、いまは米軍基地に奪われたこの土地で。
胸がいっぱいになる。
まっすぐに普天間神宮から続く
どんな美しい街並みだったのでしょう、
わたしたちの先祖が生きた土地、
いまは米軍基地に奪われたこの土地で。
かつてあったひとびとの暮らし、
ここに生きた人々のざわめきが聞こえてくるようです。
沖縄戦で生き残った人々を収容所に入れられ、
そして町すら米軍基地に奪われた。
そんなことも知らないで、
米軍基地のまわりに町をつくって住んでいるなどと、
なんでそんなことが言えるのでしょうか。
歴史学者でもない、沖縄に二十数年間も来たことがないという百田尚樹さんの口からでまかせの嘘、「普天間基地は田んぼのなかにあった。周りには何も無い。そこに商売 になるということで住みだした」は、沖縄の歴史と人々の暮らしそのものを棄損するものです。沖縄に二十数年も来たことがない、歴史学者でもない人物の言葉が、沖縄の真実よりも信ずるに値するとでもいうのでしょうか。まったく奇妙な話です。
基地に奪われた土地の下に、
うちなーのひとびとの暮らしが埋められている。
本土の多くの人にも見てもらいたいので、
ブログに記録しました。
This is the old road we lost since 1945, because American military base had taken this land from citizens. We could see this for the first time in over 70 years!
目かっぽじって観ててください。
西普天間地区の中に、幸運にも入ることが出来ました。
返還予定地で、琉大病院や普天間高校が移設を検討してる場所。
宜野湾市の教育委員会文化課が、いま米軍住宅のあったところを文化財調査中で、
掘り返してみたらば出てきた、大正時代に敷設された石の道。
琉球石灰岩が白く、真っ直ぐに普天間神宮から58向けに続いています。
戦前はサトウキビを運ぶための馬車やトロッコの線路もあり、
枕木や釘のあとも残っています。
残すかどうか協議中だとのことですが、
もし開発のために埋め立てられても、
100年後にもしかしたら、また日の目を見ることが出来るかも知れない。
70年ぶりの、そして100年先までの、貴重な一瞬。
もうわんさか、縄文時代の遺跡から戦前までの生活の跡まで、残ってるそうです。
外人住宅ってコンクリだけだから、杭を打たないらしく、それだから破壊されずに残ったそうな….°(ಗдಗ。)°.
もしご興味がありましたら出来るだけ早く見学を、と学芸員の方が仰ってました。普天間高校も大事だけど、これも残さなあかんやつだと思います。
頂いた資料①
ここにはトロッコ鉄道がとおり、普天間宮から大山駅まで続いていました。
頂いた資料②
祭祀跡から貝塚から洞窟遺跡から、もう遺跡だらけです。
ものすごく古い遺跡もいっぱいあるらしく。
どんな街で、どんな暮らしがあったのでしょう。
そして、なんと !
いま、見学できます!
琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦前の宜野湾集落 CGで再現
さてこちらの映像、戦前の集落を再現したものなんですが何処だと思いますか?実は普天間基地に接収される前の宜野湾市の街並みなんですね。
4年をかけて完成した映像のお披露目会が25日開かれ旧集落の郷友会の人たちが失われた街の記憶を語り合いました。
普天間基地が造られる前に存在した宜野湾集落のCG映像。地域のシンボルだった松並木の街道のほか、それぞれの家屋には屋号も振られるなど、基地に奪われるまでのふるさとの光景が広がっています。
字宜野湾郷友会では、当時を知る会員への聞き取りやアメリカ軍の航空写真をもとに、4年の歳月をかけてこの映像を完成させました。
郷友会の人々「あったーるねーんど。あんな町はないよ。学校もあるし。役所もあるし」
字宜野湾郷友会宮城政一会長「そこは集落だったと、自分たちのふるさとだったというそういったことを示す証にもなるんじゃないかなと思ってます」と話しました。
映像を収録したDVDは郷友会や教育機関などに配布されます。